第9回
【藤光謙司選手】世界陸上銅メダリスト/アスリートの価値創造へ(前編)
株式会社アゴラ 柏木 太郎
<藤光謙司選手プロフィール>
2016年リオデジャネイロ五輪出場。2017年世界陸上400mリレーで銅メダル獲得。35歳の今も現役で活躍中。起業家として、アスリートの価値創造に取り組んでいる。
現役選手としての素顔
陸上を始める前
藤光 小学校の2年生から6年生までは、サッカーをやっていました。ちょうどJリーグが開幕し、浦和に住んでいたことから、まわりの友達全員がサッカーをはじめて、自分も自然とやり始める環境でした。
自分が頑張っても負けることがある
藤光 中学にあがってサッカーを続ける選択肢はゼロでした。理由は、サッカーの競技的特性であるチームスポーツや団体スポーツが自分には合っていないと判断したからです。サッカーをしていた時、自分が頑張っても負ける時や、逆に自分があまり頑張っていなくても勝てる時がありました。自分のスポーツ論でいくと、それに違和感や納得できない部分がありました。
最初は陸上じゃなくても良かった
藤光 自分が努力した分だけ、その努力に見合った結果がついてくるスポーツの方が合っているんじゃないかなって考えるようになりました。その結果、中学に入った時点で個人競技に切り替えようと思っていました。中学の部活動見学は、卓球・バトミントン・柔道から個人でも出来るようなスポーツを一通り見てみましたが、どれもしっくりきませんでした。最後の方に友達から誘われて、足も速かったので陸上やってみようかなとフンワリした気持ちで入部したって感じです。
まったく歯が立たなかった
藤光 中学1年生の頃は、市の予選通過くらいの成績で、中学2年生の時は県大会にでられるようなレベルになりました。中学3年生の時、全国大会に出場できる標準記録っていうのがあって、ギリギリ、まさにピッタリのタイムで出場することができました。もう出ただけっていう感じで、まったく歯が立ちませんでした。中学時代はそんなレベルの選手でした。
楽しさを感じられるようになった
藤光 フンワリとした気持ちで入った陸上でしたが、客観的な計測スポーツなので、自分が頑張った分、目に見えて数字で表されます。そこが1番楽しかったですね。
考え方に変化が生まれた
藤光 高校に入ってからは、飛躍的に競技力が伸びました。中学の頃は、単純に努力の結果が見えるのが陸上という考え方でしたが、自分の記録が伸びるにつれ、競技としての陸上に少しずつ興味を持つようになりました。また、競技力が上がったことで、選抜の合宿や練習会に呼ばれるようになりました。いろんな場所でいろんな人達と出会うようになり、他県のアスリートや指導者と接することで、自分の視野や考え方が広がったことも、陸上競技にのめり込むキッカケだったと思います。高校1年生の終わり頃から、どうやったら速くなってパフォーマンスが上がるのか考えるようになったと思います。
世界トップレベルを知る
藤光 高校2年生の時は、世界大会にも出場することも出来ました。初めての日本代表です。その大会でボルトとも会ったし、同い年で世界ではこんなに速い人達がいるんだって目の当たりにして衝撃を受けました。当時、自分も世界ユースランキングでトップ8に入っていましたが、決勝まで残れませんでした。海外選手のポテンシャルの高さ、世界のレベルは高いなと痛感させられました。
カール・ルイスを育てたコーチに指導を受ける
藤光 高校3年生の時、たまたま陸連のU23のプロジェクトで、アメリカのヒューストンに合宿にいけるプログラムがあり参加しました。そこで指導してくれたのが、カール・ルイスを育てた陸上の名コーチであるトム・テレスさんでした。はじめて本当の走りっていうものを習いました。今までの自分の走りの概念を覆される衝撃がありました。今の自分の走りの根本的概念はここで生まれたと思っています。
怪我と隣り合わせ
藤光 大学時代はガラスの足と言われていました。高校3年生の時に足を痛めてしまってからは怪我との付き合いが長くなりました。走り切れればタイムを出すことができる能力はあったと思いますが、なかなか結果に繋がりませんでした。2~3試合に1回は怪我をしていたと思います。怪我と隣り合わせの大学競技人生でした。
怪我した時こそ、プラスに考えた
藤光 大学の時は正直苦しい時代でした。それでも、怪我をしなければわからないこともいっぱいあったし、怪我したからこそ客観的に自分を見つめる時間を作ることも出来ました。実際、怪我した時は練習もできないので逆に休める時間が多くとれて、身体を酷使せずに済みました。今の自分があるのは、怪我のおかげだと考えるようにしています。
何も変わらなかったことが、1番印象に残っている
藤光 社会人1年目に経験した、2009年の世界陸上ベルリン大会。初めてリレーのシニアで日本代表として走りました。結果は4番。ぎりぎりメダルを獲れませんでした。自分の中では世界のシニア大会で4番を獲るって、すごい事だと思っていました。世界選手権で入賞したことによって、世間的な印象だったり、評価だったり、どれだけ変わるのかなと思っていましたが、何も変わりませんでした。何事もなかったかのように。世界で4番になることって大したことじゃないんだなって、良くも悪くも強い印象として残っています。
史上初の銅メダル獲得と恩返し
藤光 2017年の世界陸上では400mリレーでアンカーを務め、銅メダルを獲得することができました。一つようやく形として認められる成績を残せたと思います。もちろん自分自身として嬉しかったですが、今まで自分に関わってくれたコーチであったりサポートしてくれた方々に、一つの証明や恩返しみたいなものがようやく返せたなという想いが強かったです。
信頼のバトンパス
藤光 リレーもある意味チームプレーですが、サッカーなどの競技とは少し違います。個々の寄せ集めで、個人個人の力が強くないと成績は残せません。リレーの重要な要素としてバトンパスがありますが、信頼関係が大きく関わってきます。練習中でも日常生活でもコミュニケーションを積極的にとり、信頼関係を築くよう心がけていました。バトンを渡す側も、もらう側も信じあえていないと思い切り走れないし良い成績は残せません。競技でも仕事でもコミュニケーションは互いの信頼関係向上に、とても大事なことだと思います。
長く続ける秘訣・腹八分ルール
藤光 長く続けられる秘訣は、腹八分でやめることです。「やりきらない」をテーマにしています。練習もお腹いっぱい全力でやることがいいわけでもないですし、オーバートレーニング的なこともあります。腹八分というのは、余力を残すことによって、次の日の自分のモチベーションに繋げたり、次の日の自分、未来の自分に対して期待感を持つことができます。練習もその日の目標設定をしていますが、設定した目標がクリアできれば練習をやめておこうとか、余力を持って終わらせるよう心掛けています。今35歳になりましたが、そういうスタイルを貫いているからこそ、身体も満身創痍にならずに長く続けられる理由なんじゃないかなと思います。
今後の目標
藤光 年齢的・肉体的なこともあるので、第一線で活躍するというよりも、選手としての可能性を広げられるっていうことを、選手活動としては大事にしています。スポーツはどうしても勝利至上主義の考えがつきまといますが、自分はそれだけじゃないと思っています。コロナ禍において、スポーツが世の中に対し、元気や勇気を与えています。陸上競技も同じで、アスリートの秘めている様々な可能性やポテンシャルをどんどん発信することにより、元気や勇気を届けられると思っています。現役選手をしながら、今はアスリートの価値を総合的にあげていく活動を進めています。
(後編に続く)
情報
協力
場所:ニューネックス株式会社
撮影:山さん
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