穏やかなることを学べ

第16回

今こそ学ぶべき榎本武揚の足跡

イノベーションズアイ編集局  編集アドバイザー 鶴田 東洋彦

 

榎本の功績を封じ込めた福沢諭吉の批判

東京・本駒込の吉祥寺と言えば、室町時代に太田道灌(持資)が開基した古刹として有名だが、ここに榎本武揚の墓があることを先日、友人達と訪れて初めて知った。最も尊敬する人物の墓所も知らず、恥ずかしい思いも込めて墓前で手を合わせながら、その成し遂げた功績と榎本の評価が一致しないことに改めて思いを馳せた。明治日本の近代化を牽引した榎本の大局観こそが、今の政治に必要ではないか。そう思いながら墓地を後にした。

明治の初頭、北海道開拓使を手始めに、駐露大使として「樺太・千島交換条約」を締結し、第一次伊藤博文内閣での逓信大臣、黒田清隆内閣の文部大臣など要職を歴任した榎本だが、幕末の歴史の中で、その功績は広く知られていない。

江戸の末期という時代に数か国語を操る一方、国際法や化学でも秀でた知識を持ちながら、彼を地味な存在にしているのは、幕府方から明治新政府に転じた榎本に対する福沢諭吉などによる批判ではないかと思う。

確かに榎本は徳川最後の将軍、慶喜に仕えた幕府の重鎮である。明治新政府と戦った武人で、旧幕府軍と新政府軍が最後に相まみえた「戊辰戦争(慶応4年~明治2年)」では、副総裁として幕府軍を率いて、最後まで新政府に抵抗している。

土方歳三らと「蝦夷共和国」樹立を宣言

新政府軍との関東での戦いで敗れた後、榎本は品川から8隻の軍艦を率いて蝦夷地(北海道)に籠り、新選組副組長だった土方歳三らとここで「蝦夷共和国」樹立を宣言。五稜郭(函館市)を根城に徹底抗戦を試みたが、明治2年の新政府軍による総攻撃で榎本軍は総崩れとなり、土方は戦死、榎本も捕らえられて東京・辰の口(現・丸の内)の牢に収監されている。

賊軍の首謀者である榎本の運命は当然、死罪だったが、明治新政府は逆に榎本を救済、わずか2年半で特赦とした。なぜか。最大の理由は五稜郭で榎本を降伏まで追い詰めた新政府側の指揮官で、薩摩出身の仇敵、黒田清隆による榎本の助命活動とされている。

黒田は後に第2代の総理大臣の座に就くが、榎本の度量の大きさを惜しみ牢内で死罪を請う榎本を説得する一方で、榎本の助命を懇願するため剃髪、丸坊主になって死罪を主張する政府高官らを説得。明治天皇の裁断を取り付けている。そればかりか、蝦夷の大地を開拓して豊かな地にする榎本の願いを受けて、黒田は「北海道開拓使」として登用することを政府に働きかけている。

榎本と新政府軍の戦いの舞台となった函館・五稜郭。今は桜の名所として知られる

黒田清隆を突き動かす榎本の人間力

黒田の心を突き動かしたのは、榎本の人間力に加え、オランダ留学などで学んだ群を抜く知識、国際感覚そして語学力だ。榎本は留学中、デンマーク戦争の戦場にまで赴き、欧州列強の価値観を文書に記しているが、その博識ぶりは当時の新政府にとっても、得難い財産でもあったと思われる。

実際、榎本は、独立を目指した蝦夷共和国に欧州留学で学んだ選挙制度を導入。自らも選挙で共和国総裁の座に就くと、いち早く国際法に準じて捕虜を新政府側に送還、後に赤十字運動の先駆者と呼ばれる医師、高松凌雲を招き、敵味方の区別なく治療を行う日本最初の赤十字病院(箱館病院)も創設している。

黒田の願いを受け入れた榎本は「北海道開拓使」として明治政府に仕え、蝦夷地の開墾に本格的に着手。その後は駐露大使としてロシアとの領土交渉、清国特命大使を経て伊藤博文、黒田そして山縣有朋という3人の首相の下で逓信大臣、農商務大臣、文部大臣、外務大臣といった要職を務めあげている。外交、通商、通信、教育と近代日本の礎を築いた立役者の一人が榎本であることは間違いない。

だが、かつての賊軍が明治政府の中枢に座ることには、当然、多くの批判も噴出した。その急先鋒だったのが、福沢諭吉である。福沢は、徳川幕府の海軍副総裁だった榎本が、薩長閥の明治新政府に使えて要職に就いていくことに対し武士道精神の「二君に見えず(まみえず)」とは相いれないと批判、著書「瘦慢(やせがまん)の説」の中で、勝海舟と榎本の“変節”を厳しく批判している。

忠誠の対象は“日本の近代化”

この福沢の批判に、榎本は返答していない。自ら嘆願した死罪を結果的に黒田に阻まれた榎本にとって、「変節」という言葉は心外だったのではないか。あるいは政権交代によって生じた多くの失業武士の為の新たな産業の振興、農地の改革と拡大、ロシアに対する防衛力強化。すべての知識をささげる場はもはや新政府しか無かったことも、榎本を突き動かしたのだろう。榎本に詳しい作家の佐々木譲も著書「武揚伝」の巻末で「榎本にとっての何よりの忠誠の対象は“日本の近代化”だった」と評している。

新政府の外交、通商政策の先頭に立つ一方で、榎本は旧幕臣の子弟のための奨学金制度「徳川育成会」を立ち上げ、育成黌(いくせいこう=現在の東京農業大学の前身)も創立している。また、現在まで続いている気象学会の初代会頭、電気学会の初代会長を務めたのも榎本である。技術者としての知識も、榎本の働きを支えた。

こうした榎本の働きを福沢のいう「変節」という言葉で片づけるのは、あまりに酷だと思う。ともすれば、我々は榎本と共に箱館で戦った土方歳三や西南戦争に殉じた西郷隆盛のように、信念を貫きながら散った人間を奉りがちである。福沢の言う「変節」という言葉を借りれば、榎本の生きざまが逆に映ることは否定出来ない。

ただ「武士道に背く」という福沢らの批判を敢えて受け止めるとしても、榎本が近代日本に残してきた功績は決して錆び付くものではない。むしろ危うい政権運営が進み、国難とすら揶揄される今だからこそ、榎本が残してきた足跡を歴史の中から浮かび上がらせるべきではないか。作家の佐々木譲も「人材としての武揚が明治政府には必要だった」と指摘する。そして明治新政府が榎本の知識、度量に縋らざるを得なかった現実が、何よりもそれを証明している。

 

プロフィール

イノベーションズアイ編集局
編集アドバイザー
鶴田 東洋彦

山梨県甲府市出身。1979年3月立教大学卒業。

産経新聞社編集局経済本部長、編集長、取締役西部代表、常務取締役を歴任。サンケイ総合印刷社長、日本工業新聞(フジサンケイビジネスアイ)社長、産経新聞社コンプライアンス・アドバイザーを経て2024年7月よりイノベーションズアイ編集局編集アドバイザー。立教大学、國學院大學などで「メディア論」「企業の危機管理論」などを講義、講演。現在は主に企業を対象に講演活動を行う。ウイーン国際音楽文化協会理事、山梨県観光大使などを務める。趣味はフライ・フィッシング、音楽鑑賞など。

著書は「天然ガス新時代~機関エネルギーへ浮上~」(にっかん書房)「K字型経済攻略法」(共著・プレジデント社)「コロナに勝つ経営」(共著・産経出版社)「記者会見の方法」(FCG総合研究所)など多数。

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