第8回
スコットランドのパブに「サードプレイス」を思う
イノベーションズアイ編集局 編集アドバイザー 鶴田 東洋彦
スコットランド、エディンバラの北、車で1時間ほどのところにダンディーという港町がある。南極点の到達争いでノルウェーの探検家、アムンゼンに後れを取り、帰路、悲劇的な最期を遂げたロバート・スコット大佐の調査船ディスカバリー号が係留されている小さな町だ。日本では秋風が吹くころだろうか。この町を訪れて、もう20年以上が経つ。
エディンバラ大学、グラスゴー大学での取材も終え、仕事気分を変えようと、日が暮れかけた街中に出かけてみたがとにかく暗い。底冷えする中で、薄暮の北海を眺めながら、早々にホテルに切り上げようと海沿いを歩いていると、一軒のパブがあった。覗いてみると店内は漁師などで溢れんばかりだ。勇気を奮って木戸を押し開くと、たぶん珍しかったであろう日本人の訪問者を皆が温かく迎えてくれた。
地元のサッカーチーム、ダンディー・ユナイテッドや、スコットランド代表のアザミの花のエンブレムのユニホームをまとった赤ら顔でひげ面の漁師たちだったと思う。弾けんばかりの笑顔で「日本人だろう。こんなところまで何をしに来たんだ」。一緒になって酔いつぶれた懐かしい記憶である。
20年以上も昔の、ダンディーの街のおぼろげな記憶が頭の中でよみがえってきたのは、最近になって日本社会でも「サードプレイス」という言葉を、よく耳にするようになったからだ。
このサードプレイスという言葉は、米国の社会学者、レイ・オルデンバーグが著書「グレート・グッド・プレイス」で提唱した考え方で、家庭を「ファーストプレイス(第一の場所)」、会社や職場を「セカンドプレイス(第二の場所)」と位置づければ、この両者とは全く異なる、居心地の良い場所がその人間にとってのサードプレイスになる、というものだ。
例えば英国にはパブ、フランスにはカフェ文化があるように、その場所に常連がいて、そこに行けば温かく親しみやすい環境がある、と言えばわかりやすい。著書の中でオルテンバーグは、サードプレイスというのは「コミュニティライフのアンカー」となるべき場所で、より創造的な交流が生まれる空間であると記している。つまり市民社会、市民参加を促す重要な役目を果たすと場所こそがサードプレイスである、と論じているのだ。
ダンディーのパブは、小さいながらもまさにその典型だったように思える。その日の漁を終えた漁師たちが、1日の疲れを癒すために2パイントほどもあるビールジョッキやジンを片手に仲間たちと語らい、唄い、地元のサッカーチームの応援に声を枯らし、そして赤ら顔で家路につく。スコットランドの片田舎で目にした光景は、間違いなく、彼らにとってのサードプレイスだった。
この英国のパブ文化に見られるように、主に欧州で培われたこの「サードプレイス」の文化だが、米国ではむしろそのような場所が失われていると、オルテンバーグは著作の中で警鐘を鳴らしている。確かに車を中心に計画された米国社会に、パブ文化はもちろんのこと、パリやウイーンに根付いているようなカフェ文化はない。だからこそ、米国では地域社会に自然に生み出されていく人間同士のつながりとそれを育む場が必要と断じている。
翻って日本の現実はどうだろうか。この言葉をオルデンバーグが提唱したとき、識者の中にファミリーレストラン、チェーン展開しているカフェやコアワーキングスペースなどもサードプレイスではないかという見解があった。だが、それらが市民社会、市民参加を促す重要な場所と言えるだろうか。少なくとも「コミュニティライフのアンカー」たる場所ではありえない。
かつては、地域のコミュニティの担い手であった自治会、町内会、婦人会、青年団といった地域団体も、社会環境の変化で存在感を薄めている。日本の都市基盤の整備が「ファーストプレイス」「セカンドプレイス」に集中、結果的に都市のドーナツ化、長時間通勤が当たり前のような社会となったのは否めない。「サードプレイス」の存在が阻害される状況だったのだ。
だが、最近になって日本でもようやく、オルデンバーグが提唱した社交的交流の場としてのサードプレイスに加えて、異業種の交流、情報発信のためのコミュニティが多くの地域に誕生している。また、オルデンバーグが重視している「会話」や「常連」といった要素には該当しないかもしれないが、一人でいることの心地よさ、憩いを意識した「マイプレイス型」とも言えるスペースも、シェアオフィスのような形で誕生している。
ことさら意識する必要はないかもしれないが、少なくともこれから少子化、高齢化が確実に進んでいく以上、個人で出来るコミュニティには限界もある。団塊の世代やその上の世代の孤独死も顕在化している。そうしたストレス社会だからこそ、やはり人が集って創造性を高め、個人の孤立化を防ぎ、一方で地域文化などを拡大していく「コミュニティライフのアンカー」的な場所として、サードプレイスをどう位置付けていくかは今後、この国にとって重要な課題だと思う。ダンディーのパブの風景を思い浮かべながら、そんな思いが頭をよぎった。
プロフィール
イノベーションズアイ編集局
編集アドバイザー
鶴田 東洋彦
山梨県甲府市出身。1979年3月立教大学卒業。
産経新聞社編集局経済本部長、編集長、取締役西部代表、常務取締役を歴任。サンケイ総合印刷社長、日本工業新聞(フジサンケイビジネスアイ)社長、産経新聞社コンプライアンス・アドバイザーを経て2024年7月よりイノベーションズアイ編集局編集アドバイザー。立教大学、國學院大學などで「メディア論」「企業の危機管理論」などを講義、講演。現在は主に企業を対象に講演活動を行う。ウイーン国際音楽文化協会理事、山梨県観光大使などを務める。趣味はフライ・フィッシング、音楽鑑賞など。
著書は「天然ガス新時代~機関エネルギーへ浮上~」(にっかん書房)「K字型経済攻略法」(共著・プレジデント社)「コロナに勝つ経営」(共著・産経出版社)「記者会見の方法」(FCG総合研究所)など多数。