穏やかなることを学べ

第4回

樋口一葉と水仙

イノベーションズアイ編集局  編集アドバイザー 鶴田 東洋彦

 

吉原遊郭の遊女となる「美登利」と、仏門に入る「信如」の淡い恋と別れを描いた樋口一葉の「たけくらべ」。物語は、修行のため信如が寒い朝、美登利の住む姑楼を離れるところで終わる。その別離の場面を強く印象づける花が水仙である。

水仙の「作り花」を、美登利の住まいの門の格子に差し込み、修行に出る信如。悲恋の物語ではあるが、不思議と哀しみだけが残らないのは、違う世界に身を置く運命のふたりが、それでもなお、お互いを思い合う象徴として水仙が描かれているからだろう。

すでに水仙の季節も過ぎ、桜の花が真っ盛りなのに、この「たけくらべ」を思い出したのは、神戸製鋼所に勤める友人から、兵庫県・加古川市に咲く水仙の可憐な様子を聞いたからだ。神鋼の製鉄所から離れてはいるが、市内の野口町の道沿いに200メートル近い「すいせんロード」が整備されていて、2月末から次々に咲き始め、4月いっぱいまで水仙の香りが漂うという。桜が咲き誇る中で、沢山の花を広げる水仙の様子は加古川では知らぬ人がいないほど有名らしい。

水仙の可憐な花が、寒風の季節を経て、絢爛な桜の花に負けぬように健気に咲き並ぶ光景を思い浮かべ、その佇まいが樋口一葉と水仙、そして「たけくらべ」の場面に繋がった。

当時、この物語のために樋口一葉は吉原近くの下谷龍泉寺町(現在の東京都台東区)に住んだ。今でこそ東京の都内ではあまり見かけなくなったが、江戸の中期から明治にかけては、下町のいたる所に水仙の花が植えられていたという。

大阪で生まれ、江戸日本橋に居を構えた与謝蕪村も町の印象を「水仙や 寒き都の ここかしこ」と詠んでいる。物語を締めくくる場面に、彼女が水仙を添えたのは、「ここかしこ」に可憐な花が咲く、明治の下町の風景に魅かれたのではと思う。

古くから日本でも親しまれてきた水仙の原産は、南欧から北アフリカにかけての地中海沿岸である。日本には平安時代のおわりに、中国を経て渡来したと言われる。本州以南の比較的暖かい海岸近くで野生化して群生、全国に名所も多い。

岬全体を包み込むように咲く、見渡す限りの水仙に驚かされたのは、学生のころ訪れた伊豆・下田の爪木崎の風景だ。ここも有名な水仙の景勝地である。加古川の風景も、またこの海に向かって咲くような風景とはまた違う趣があるのだろう。

学名はラテン語で「ナルキソス」。ギリシャ神話に登場する美少年ナルシスが水鏡に映った自らに恋して、思いを遂げられず憔悴して死を遂げる。その身体が水辺で咲く水仙に変わった、いわゆるナルシストに由来するのはよく知られている。だが、「すいせん」の名前の由来はあまり知られていない。

中国の呼び名、水仙をそのまま音読みしたもので「仙人は天にあるを天仙、地にあるを地仙、水にあるを水仙」という古典が由来だ。水辺で咲く姿を仙人に例えたのだろう。また、水仙は別名を「雪中花」という。残雪の中からも、春の訪れを告げるように顔を出す。そんな様子からそう名付けられた。

「たけくらべ」をしたためながら、樋口一葉の目に映ったのは、寒さにじっと耐え続けながらも白や黄色い花をつける、その健気さと芯にある強さが美登利、そして信如の思いと重なったからではないか。

ちなみに欧米では水仙は「希望」の花とされる。当時、樋口一葉が恩師以上の憧れを抱いていた東京朝日新聞の小説記者、半井桃水(なからい・とうすい)にそのことを聞き、二人の先行きに希望のようなものを滲ませたかったのでは、とも想像してしまう。

この加古川の「すいせんロード」は、ロジン(松脂)を原料に樹脂や電子部品事業を国際展開するハリマ化成グループが、加古川製造所北側の道沿いを水仙の花で埋め尽くそうと2021年12月から始めたプロジェクトである。

同社によると「花の咲く時期が違う26種類、約2300個の球根を植え付けて、道行く人に楽しんでもらっている」という。ハリマグループは「すいせんロード」に先駆けて、製造所内にオレンジ色が綺麗なマリーゴールド園も開園、地元では「花の会社」と呼ばれているそうだ。粋な会社だと思う。

 

プロフィール

イノベーションズアイ編集局
編集アドバイザー
鶴田 東洋彦

山梨県甲府市出身。1979年3月立教大学卒業。

産経新聞社編集局経済本部長、編集長、取締役西部代表、常務取締役を歴任。サンケイ総合印刷社長、日本工業新聞(フジサンケイビジネスアイ)社長、産経新聞社コンプライアンス・アドバイザーを経て2024年7月よりイノベーションズアイ編集局編集アドバイザー。立教大学、國學院大學などで「メディア論」「企業の危機管理論」などを講義、講演。現在は主に企業を対象に講演活動を行う。ウイーン国際音楽文化協会理事、山梨県観光大使などを務める。趣味はフライ・フィッシング、音楽鑑賞など。

著書は「天然ガス新時代~機関エネルギーへ浮上~」(にっかん書房)「K字型経済攻略法」(共著・プレジデント社)「コロナに勝つ経営」(共著・産経出版社)「記者会見の方法」(FCG総合研究所)など多数。

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