穏やかなることを学べ

第10回

エンツォ・フェラーリの“凄み”

イノベーションズアイ編集局  編集アドバイザー 鶴田 東洋彦

 

フェラーリ初のF1マシン「125」(左から2番目)と1950年代のレースを席巻したフェラーリのF1マシン(43分の1スケールモデル)

モデナに君臨した「北の教皇」

もうずいぶん昔のこと、自動車業界を担当していた記者から聞いた逸話である。「イタリアには教皇が二人いるんですよ。誰だと思いますか」。もちろんイタリアで教皇といえばローマのヨハネ・パウロ二世を指す。だが、彼によると、パウロ二世は「南の教皇」であり、もう一人「北の教皇」がいるというのだ。

宗教家の話題かと聞き流していたら、彼曰く、教皇は北部の地方都市モデナの人間という。それで、想像はついた。モデナで「カヴァリーノ・ランパンテ(跳ね馬)」のエンブレム、深紅のナショナルカラーをまとった車を作り続けた男。そうエンツォ・フェラーリがその人だという。

眉唾のような話だったので、もうすっかり忘れていた会話だったが、最近読んだ海外旅行の雑誌で、もう亡くなって36年もたつエンツォが、現在でもそう呼ばれていることを知って、改めてイタリアでの彼の存在感に驚かされた。

もちろん、筆者自身は、跳ね馬のエンブレムの車に乗れるような身分ではない。だが、クルマ好きという立場を超えて、エンツォ・フェラーリは経営者としても、技術者としても尊敬する一人であり、「速く走るクルマだけを開発する」彼の哲学には、大げさではなく畏敬の念すら感じる。「速さ」という神を追い求めた求道者のような人物と考えれば、なるほど「北の教皇」というのも言い得て妙だと思う。

中東の王族やハリウッドスターを顧客に

エンツォがアルファロメオのドライバーとして活躍した後、アルファのマネージャーとしてメルセデス・ベンツやアウトウニオン(現アウディ)といったドイツ勢を破って好成績を挙げ、自らもレーシングモデルを開発したのは第二次世界大戦前のことだ。大戦のあと、わずか2年後にはレースカーの開発会社として「スクーデリア・フェラーリ」を設立、シチリア島のレース「タルガ・フローリオ」等で勝利したレーサーをベースに高級スポーツカーを開発。少数を中東の王族やハリウッドスターなど、限られた富裕層に販売する手法を確立している。

1950年に英国でF=1レースが始まると、このシリーズにもいち早く参戦、翌51年には、全く新しい技術を持ち込んだマシン「フェラーリ375」で初優勝、その後も古巣のアルファロメオを破り活躍するなど、イタリアのナショナルチーム的存在になった。以後、スクーデリア・フェラーリのマシンはF-1だけでなくミッレ・ミリア、ル・マン24時間、カレラ・パナメリカーナと言った当時に有名レースで輝かしい戦績を重ね、レース界において、あるいは高級スポーツカーの開発で、今もなお不動の地位を確立している。

もちろん、その地位を確立するまで、すべてが順調だったわけではない。最も深刻だったのは、手作りに近い高性能車を限られた少数の富裕層にしか売らない手法が通じなくなった1960年代以降のことだ。安価で乗り易いクルマが各国に普及したこの時代、エンツォは深刻な経営危機に陥りながらも、レース部門の責任者を続けることを条件に、イタリア最大のメーカー、フィアットの傘下に入って速い車を作り続ける、というしたたかな戦略をとる。

これには、当時、フェラーリを傘下に収めようと動いていたのは、巨大メーカーの米フォードをけん制する狙いもあった。フェラーリの開発技術が米国に移ることを危惧したイタリア政府やフィアットに働きかけ、モデナで高級車の少数生産を続けながら、レースでも勝ち続けるという条件をフィアットのトップだったジャンニ・アニエリに飲ませることに成功する。このあたりは、経営者としてのエンツォの面目躍如だろう。

コーリン・チャップマンとの対決

そのエンツォの「速さ」に対する信念を最も強く感じるのは1970年から80年代のF-1レースだと、個人的には思う。ライバルのコーリン・チャップマン率いる英国のロータスをはじめ大半のチームが、英国コスワース社の開発した軽量小型の8気筒エンジンを搭載したのに対して、エンツォはただ一人、自社開発の水平対向12気筒エンジンにこだわった。

重く大きなこのエンジンは空力的にも不利とされ、屈辱的な負けを重ねながらも執念で水平対向の仕組みを生かしたマシン「312」を開発、70年代半ばからは、ドライバーにニキ・ラウダ、クレイ・レガッツォー二といった名手を迎えて、連勝を重ねる。当時は日本でもF-1人気が高まってきた時代。フェラーリ、ロータス、マクラーレン、ティレルといった有力チームの壮絶な争いに魅了されたことをよく覚えている。

もちろん、異論はあると思う。ル・マン24時間レースを舞台にマセラティやジャガーと戦った1950年代、さらにはルマン制覇を狙って米国フォードが送り込んだ「GT40」と戦った1960年代、フォード撤退後、ポルシェが送り込んだ空冷エンジンの怪物マシン「917」に対抗して開発した「512」投入時代の方が、よりエンツォの執念を感じるという人も多いだろう。

ただ、そのすべての時代が、先月封切られたばかりの「フェラーリ」、あるいは2019年封切の「フォード対フェラーリ」、さらにさかのぼればスティーブ・マックィーン主演で1971年に封切られた「栄光のル・マン」という形で映画化され、世界中で大ヒットしている。エンツォというたった一人の、速さに賭ける執念がこれだけの映画作品に結実し、見どころとなっていることが、その存在感の大きさを物語っている。

揺るがない経営哲学

そのエンツォが亡くなったのは1988年8月。もう四半世紀が経過した。ただ、改めてこのエンツォの生きざまを振り返ると、絶対的な哲学を持った人間が本当の意味で強い経営者と思う。息子ディーノの死亡、会社の株式を巡る妻との確執など多くの家庭問題を抱え、しかもフィアットの傘下となりながらも、レース部門は手放さず、エンツォの「速い車を開発する」という哲学は揺るがなかった。

前述の映画「フェラーリ」のシーンで印象的な言葉がある。1950年代、ルマンをはじめとした耐久レースで英国のジャガーと勝負を繰り広げていた時のエンツォのセリフだ。「ジャガーは自らの車を売るために速い車を開発するが、わが社は違う。早い車を開発するために車を売るんだ」。個性的な経営者というのは多々存在する。ただ本当の意味で、経営者の“強烈な個性”というのは、エンツォのような人間を指すのではないか。ちなみに今年のルマン24時間レースも、昨年に続いてフェラーリのマシンが優勝している。

 

プロフィール

イノベーションズアイ編集局
編集アドバイザー
鶴田 東洋彦

山梨県甲府市出身。1979年3月立教大学卒業。

産経新聞社編集局経済本部長、編集長、取締役西部代表、常務取締役を歴任。サンケイ総合印刷社長、日本工業新聞(フジサンケイビジネスアイ)社長、産経新聞社コンプライアンス・アドバイザーを経て2024年7月よりイノベーションズアイ編集局編集アドバイザー。立教大学、國學院大學などで「メディア論」「企業の危機管理論」などを講義、講演。現在は主に企業を対象に講演活動を行う。ウイーン国際音楽文化協会理事、山梨県観光大使などを務める。趣味はフライ・フィッシング、音楽鑑賞など。

著書は「天然ガス新時代~機関エネルギーへ浮上~」(にっかん書房)「K字型経済攻略法」(共著・プレジデント社)「コロナに勝つ経営」(共著・産経出版社)「記者会見の方法」(FCG総合研究所)など多数。

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