第2回
最後の片付け
パケットファブリック・ジャパン株式会社 ジュリアン
とうとう、”ユーラシアン・オデッセイ”に旅立つ準備をしなければならなくなった。住んでいるアパートの契約も満期まで残り10日。このアパートはいわゆる「デザイナー系」で、100平米の間取り1LDKだ。東京大学の近くの、あの森鴎外や夏目漱石が以前家を構えた文京区内にある。かなり広いのだが、家具はほとんどない。引越しはともかく、掃除や手入れが面倒なため、居候を一人、時には二人住まわせて色々と手伝ってもらっていた。
旅発つ前のお手伝いをしてくれる居候は60代の日本人男性。 33歳でガタイの良いハーフの俺と並べたら不思議なコンビであろう。彼との縁は、2015年に東京に住み始めた頃、同じシェアハウスの住民だったことに始まる。そのシェアハウスは70名収容の西日暮里にあった超格安宿。月36,000円で、まるで牛舎の様に人間をカプセルに詰め込んでズラーッと並べ、かなり高利回りなビジネスモデルを実現していた。各カプセルには窓も無かったから、消防法においては治外法権だったのではないか(あるいは住民は人間扱いされていない為、消防法の適用外だったという説もありうる)。俺は1年半そこに住んでいて、地道に自分の事業を拡大していった。その時の努力と活力のおかげで、シェアハウスを卒業して小さな成功を成し遂げたが、他の住民たちには大きな迷惑をかけた。
シェアハウスとは一種の近代的な「最下層の村」だとも言えると思う。住民には、東京に夢を抱いて田舎から出てきた者もいれば、海外からワーキングホリデーで憧れのJapanにやって来た外国人もたくさんいた。特徴は、誰しも社会から見て「安定」しているとは言えないことだ。学生、ガードマンなどの派遣労働者、IT業界でこき使われる、シャワーも浴びずにデスマーチをひたすら歩く近代奴隷。バングラデッシュから日本に万引きしにやって来た泥棒。金の密輸に関わっていると言われた正体不明の静岡県民。複数のポルノサイトを運営し、偽造トラフィックでネット広告収益を稼いでいた元公務員。母親に売春をやれと言われ逃げてきた超美人のロシア系クオーターの子。オーストラリアと日本のハーフで、東京で最も悪名高い女衒の弟子をやっていた俺の後輩。そして、こんな連中を毎日のようにいじめていた英会話講師の僕ちん。そんな中で東京生活を始めたのだったが、それも最高に楽しかった。
今やデザイナーズマンションに住むようになった身だが、誰しもが成功を掴んでシェアハウスを卒業できるわけではない。実に現代社会の問題を象徴しているのがシェアハウスだ。短期の賃貸契約だし、経営陣が突然シェアハウスをやめると言い出したら(実際このシェアハウスは2018年に廃業した)、住民が追い出される他ない不安定な住み方だ。中には、家賃が安いからというだけでそこに住んでいる人もいる。向上心がないと言うか、未来に絶望している感もある。それでもこの生活を楽しむ者もいる。
シェアハウスの構成は、70人の内50人は男性で、残りは女性。低予算の超汚い安宿だったので、普通の女の子が入居することは稀だったが、たまに可愛い子がチェックインした場合には、毎回同じ現象が起きていた。若い男たちはリビングに楽器や酒、DVD映画などを持ち出して、その女を盛り上げて自己をアピールしようとする。これだけ大勢の男が女性一人を狙うと男同士の相撃ちになってしまい、女性をゲットする者は皆無。もちろん、我輩はそんな消耗戦に参加する訳がない。それでも、男女比率がこれほど偏れば、人間という動物を観察し、より良く理解できる。
テレビで見る『テラスハウス』と比べて、俺が住んでいたシェアハウスの方が安くて汚くて数百倍リアルで、面白い。そんな中から抜け出し、別れを告げた末に、こうやって旅立つことを考えると少し寂しくなる。
家の物を片付けていくと、頭の奥に隠されていた記憶が次々に思い返される。昔、俺の人生に居た「あの人」との写真や、もう連絡も取らなくなった家族との写真を手にすると、他人の写真だったら見向きもしないのに、何故か感情に溢れる。それもおかしな話だ。記憶を掘り出すために片付けをしている訳でもないのに、どうも一枚一枚ゆっくりと眺めてから箱へと収納する。人生と言う一種の旅で出会った人達。一人残らず巡り合えて良かったと思いながら、ひたすら自分の物を片付ける。もしかすると、これが最後の片付けになるのかもしれない事を考えると、次に更なる相反する感情が湧いて来る。楽観的な感情の津波が。そう、いずれこの世で再び会えるのだと。いくら見込みのないことであっても、目標があるならそれを達成できることを信じなければならない。それこそが人間の潜在能力を最大限に引き出す方法だ。
プロフィール
パケットファブリック・ジャパン株式会社
マーケティング・ストラテジスト ジュリアン
日英ハーフでイギリス育ちのバイリンガル。
営業マン、寿司屋の見習いなどを経て、2015年に東京に移住し、英会話講師兼実業家として新たなキャリアをスタートさせる。
西洋文化や歴史の解説を取り入れたユニークなスタイルの英語レッスンで数多くの日本企業を顧客に持つ他、自身のスーツブランド"LEGENDARY"にてファッション業界にも進出。
2016年よりINAP Japanのマーケティング・ストラテジストとして、グローバルビジネスをサポート。
組織の形式や常識にとらわれない”自由人”として、常に先鋭的な情報を発信しビジネスに新しい発想や刺激を与え続けている。
Webサイト:パケットファブリック・ジャパン株式会社