第20回
名将に学ぶ「心を通わす」リーダーの言葉③――名将は「自分の器」をどう広げたか
イノベーションズアイ編集局 ジャーナリスト 加賀谷 貢樹
現代のリーダーは「人間性」を武器にせよ
本シリーズ最終回の今回は、リーダーに必要な修養をテーマに取り上げてみたい。
前回の記事で触れたように、修養とは「学問を修め精神をみがき、人格を高めるよう努力すること」(『大辞林』)である。
そう書くと、身構えてしまいそうだが、そんなに堅苦しく考えることもない。
これまで名将の言行を見てきたように、パーパスを語ることも、「怒る」のではなく「叱る」ことも、部下のモチベーションを高めることも、結局のところ「人間の心にひそむ前向きの衝動をかき立てる」ことを意図してのことだと思う。
名将たちの時代から約500年が経つ現在、おそらく組織に最も必要とされているものは、この「人間の心にひそむ前向きの衝動をかき立てる」リーダーシップなのだろうと、私は企業取材を20数年間続けてきた中で実感している。
今のように技術が発達していなかった戦国時代や江戸時代初期、名将たちは「人間の心にひそむ前向きの衝動」を、リーダーとして身につけた度量、あるいは「自分の器」を広げることによって引き出していた。
現代的にみれば、それらはつかみどころのない、前時代的でアナログなやり方である。回りくどいいい方かもしれないが、技術や理論、あるいはツールなどに頼るのではなく、自分自身の人間性を武器にして、人を動かし、問題を解決し、目標を達成していたのだ。
逆にいえば今、技術や理論、ツールなどで解決しきれない問題に直面したときにこそ、人間性を武器にして問題を解決していた先人たちの知恵が、現代に活きてくるのではないか。
『名将言行録』には、リーダーとしての度量、あるいは「自分の器」を広げるために、名将たちが日々努力していたことを伝えるエピソードが記されている。
批判の落書きをそのままにさせ、罰しなかった家康
リーダーにとって自らの度量が最も試されるのは、批判や諫言(かんげん)を受けたときかもしれない。瞬間的に湧き上がる怒りの感情を抑えて冷静に経ち振る舞うのはもちろん、その批判や諫言を糧にして、自らの度量や器を広げようと精進することができるかどうか。
徳川家康の度量の広さをうかがわせる、こんなエピソードがある。
「家康が二条城にいた頃、落書きをする者が数多くいた。京都の治安維持をつかさどる所司代(しょしだい)の板倉勝重(いたくら・かつしげ)が犯人を捜すべきだと申し上げたところ、家康は『そのまま放っておくがよい。さて、どんなことが書いてあるのかをみてみよう』といって落書きを眺めて、『こうなった以上は、落書きを禁じてはならない。体裁が悪いことではあるが、私にとって心得となることもあるから、そのままにせよ。何度でもみよう』といわれたということだ」(『名将言行録巻之四十一』より訳出)
『名将言行録』でこのくだりを読んだとき、私は18世紀後半のプロイセンの啓蒙君主・フリードリヒ大王のエピソードを思い出した。
「東プロシアの民衆にとって王はこわい人ではなかった。むしろ人々は彼の悪口を言った。自分が不当な扱いを受けたと感じると、遠慮なく公然と毒ついた。当時二十八歳のゲーテはベルリンに行ったとき、『あんな偉い人のことをろくでなしみたいにこきおろしているのを聞いた』と書いている。『それなのに何のお咎めもない』と医師のツィンマーンが目をまるくして付け加えた。
国民は王の悪口を言ったが、王を愛していた。彼らは知っていたのである。(中略)高慢ちきな大臣に向かって、『それなら私は直接王様のところへ行く』と言ってもよいということを」(S・フィッシャー=ファビアン著 尾崎賢治訳『プロシアの栄光とフリードリヒ大王 人はいかにして王となるかⅡ』〈日本工業新聞社〉)
生きた時代も場所も異なるが、家康、フリードリヒ大王はともに、民衆からの批判を受け入れる度量を持ち、愛されるリーダーだったということだ。
それにしても、為政者としてはなはだ体裁の悪い批判の落書きを、あえてそのままにさせ、むしろそこから学ぼうとする家康の姿勢には恐れ入る。公人であるにもかかわらず、SNSなどで批判を受けると法的手段に訴えようとする現代の政治家に、わが身のあり方を見つめ直していただきたいと思うばかりだ。
また、天才軍師として知られる黒田官兵衛(くろだ・かんべえ)も、人を育てる名人として評判の高かった武将だ。のちに「如水(じょすい)」と号し、その名前で『名将言行録』にも登場しているが、彼は自分に至らぬところがあれば、いつでも諫(いさ)めてくれと家臣たちに命じている。
「士(さむらい)たちの中にも、自分と気が合う者がいて、そばに召し抱え、ちょっとした用事を勤めさせているが、その者に心を奪われないだけの心構えはある。だが相性がいいだけに、おのずから状況によっては、あるいは悪事を見逃すこともあるだろうから、皆の者には極力気をつけてそれを見出し、そのようなことがあれば自分を諫めてもらいたい」(『名将言行録巻之二十九』より訳出)
自分を諫めてくれる部下の勇気に思いを致せ
「諫(いさ)める」とは、「目上の人に不正や欠点を改めるよう忠告する」(『大辞林』)ことである。だが部下にしてみれば、リーダーや上司に直言することはとてもできないと思うのが、むしろ普通のことかもしれない。人事権を握り、自分よりも圧倒的に強い力を持っている相手に苦言を呈することで、どんな報復を受けるかわからないと恐れているからだ。
幼少時代に人質として、今川氏のもとで過ごした苦労人の家康は、部下にとって、主君を諫めることがいかに危険で勇気が求められることかをよく理解していたようで、こんな言葉が伝えられている。
「主人の悪事をみて諫言(かんげん)する家老は、戦場で一番槍(いちばんやり)を突くよりも、はるかに性根(しょうね)が据(す)わっているものだろう」
「主人の悪事を強く諫言することは、十中八九、わが身に不運を招く嘆かわしい勝負だ」(ともに『名将言行録巻之四十一』より訳出)
一番槍とは、戦場で両軍が相対峙する中で、一番最初に槍を振るって敵陣に突入することだ。極度の緊張感のもとで先陣を切り、大軍同士が激しくぶつかり合うきっかけを作るという、死と隣り合わせの行動である。だからこそ、一番槍は武人にとって最高の名誉とされたのだ。家康はこう話を続ける。
「敵と勇敢に戦うにも命を惜しんではならないが、勝負は時の運次第だから、自分が敵を倒すこともあれば、敵に倒されることもある。たとえ自分が討ち死にをしても、名誉は子孫に残り、主君にも惜しまれるから、死んでも本望(ほんもう)だ」(『名将言行録巻之四十一』より訳出)
つまり、一番槍をすることで自分が命を落とすこともあろう。だが武人にとって、そのリスクを補って余りある利は得られるというのだ。ところが、主人に対する諫言になると、そうはいかない。
「その主人は無分別で悪事を好むわけだから、自分への戒めとなる言葉に機嫌を損ねてしまうものだ。自分を諫めた家老によそよそしい態度を取り、遠ざけようとする。そのようなときに、自分に媚びへつらう部下や立身出世を目論む虚気者(うつけもの)どもが申し合わせて、先の家老を悪人に仕立て上げ、何かにつけて讒言(ざんげん)をなす。
(すると、その主人は)讒言が正しいものと思い、(その家老に対して)心を隔て、御覚えが悪くなる。(中略)ところが、主人の機嫌が悪くなっても構わずに、『家の長である主人(である主君)の悪事をやめさせなければ、その責任は自分一人に帰する』と分別を尽くし、わが身を顧みずに何度も主人を諫める家老は、ついには手討ちにされるか、閉門のうえ蟄居(ちっきょ/一室に謹慎させること)されるものだ。財産もなくなり妻子にまでも迷惑をかけることは必定(ひつじょう)だ」(『名将言行録巻之四十一』より訳出。文章を読みやすくするため改行を設けた)
こうなったら組織はおしまいだ。
こうしたリーダーの振る舞いを見たら、部下たちは「どんな者でも不満を持ち、主人を見限り、嫌ってよそよそしくする心が生じて身構え、異論を唱えることをやめる。そして仮病を使って引っ込み、隠居を願いなどすることは、10人中8、9人に及ぶ」(『名将言行録巻之四十一』より訳出)だろうと、家康はいう。
幸之助さんを引き合いに出すまでもなく、組織の中で「衆知」を集めることは大切だ。しかし、リーダーに苦言に耳を傾ける度量がなければ、結局はその衆知も組織の中で活かされず、組織が自壊してしまうことを、家康は警告していたのだと思う。
何をいわれても腹を立ててはならない「異見会」
先の家康の言葉の中で「異論」と訳した部分は、原文には「異見」と書かれている。現代的な意味は「異なった意見」(『大辞林』)だが、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、古くは「①ある物事や判断に対して持つ考え。見解」、「②(─する)思うところを述べて、いさめること。忠告。説教。訓戒」などの意味で使われていたという。
ここで1つ思い当たることがある。先に紹介した黒田如水が、息子の黒田長政(くろだ・ながまさ)に対する教育の一環として始めたのが、「異見会」なのである。
黒田長政は、如水とともに名君として称(たた)えられるリーダーに成長したが、若い頃は気が荒く、すぐに腹を立てる性格であったようだ。そこで如水が長政に命じて、月に1回、何をいわれてもけっして腹を立てないというルールのもとに、忠臣たちと自由に意見を言い合う場として始めたのが、「異見会」だった。
「(異見会への)出席者は、家老のほかに、思索が深く相談の相手にふさわしい者、また主君のためを思う気持ちがとりわけ強い者、5、7人を超えることはなかった。(異見会での)話し合いは、人を退け、まず長政が発言し、『今夜は何を話しても遺恨を残してはならない、また他言してはならない。もちろんその場で腹を立ててはならない。思いついたことを発言するのを遠慮してはならない』と、誓いの言葉を述べたので、出席者は全員、長政に倣(なら)って誓いを立てた」(『名将言行録巻之三十』より訳出)
全員が、「この会でのやり取りに遺恨を残さず、他言無用、けっして腹を立てない、思ったことを遠慮なく話す」と誓いを立てたことで、普段ではとても話すことのできない事柄が、この場で議論されるようになった。
「長政の評判のよくないことと士(さむらい)たちへの接し方、藩政で道理に合わないことについて、思うところを余すことなく申し述べ、あるいは過ちを犯して出勤を止められ、または扶助を除かれた者の謝罪の言葉、そのほかどんなことであっても、普段なかなかいえないことを申し上げた。また、家の重責にある者たちが、同僚の手前、気にかけていることを話したいと思っても、悪く取られれば怨まれる。以来、主君のためによろしくないだろうと遠慮して発言を控えていたことなどまで、思ったことを皆で残さずいい合い、互いに本心のままに発言することを避けないようにしたので、まことに心のこもった議論であった」(『名将言行録巻之三十』より訳出)
ときには、さまざまな「異見」を聞いて腹を立てそうになる長政を、部下がやんわりとたしなめる場面もあったという。
「もし長政に少しでも怒る様子が見えたら、(参加者が)『これはどうしたことでございましょう。お怒りのようにお見受けいたします」と申し上げたので、(長政は)『いやいや、少しも怒っていないぞ』と表情を和らげた。目上の者も目下の者もともに、よくないことについては繰り返し、何度も、納得がいくように、お互いが思うところを残さず話し合ったので、非常に有益な会であった。何日の夜という決まりもなく、長政が思いついたときに『今夜は例の腹立たずの会をしよう、参加者たちをお呼びなさい』と、いきなり開催したとのことである」(『名将言行録巻之三十』より訳出)
「何をいわれても怒ってはならない」――そういい聞かせはしても、ちょっとした表情の変化をも、部下は見逃さないものだ。部下の一言に、長政は表情を和らげ、「少しも怒っていないぞ」と語りかけた。
なんとも微笑ましく、心の洗われるような光景が目に浮かんでくるではないか。
黒田家では長政以降、明治維新までこの「異見会」が続けられたという。非常に民主的で、知恵のある優れた施策であると思う。
皆さんの職場でも、リーダーを含む参加者全員が、「この会でのやり取りに遺恨を残さず、他言無用、けっして腹を立てない、思ったことを遠慮なく話す」と誓いを立て、思いの丈(たけ)をぶつけ合ってみてはいかがだろうか。
最後に、『名将言行録』からエピソードを引いて、リーダーと部下の心が通い合った組織とはどんなものだったのかを、それぞれリーダーの視点と、部下の視点から見ていくことにする。
部下は「天下の宝」だと秀吉に自慢した家康
「秀吉はかつて家康に向かい、『私が所有している道具は、鎌倉後期の刀工・粟田口吉光( あわたぐち・よしみつ)の銘のあるものより始め、天下の宝というものはひととおり集めた』といって指を折って数えたて、『さて、家康公ご所蔵の宝物は何でございますかな』と尋ねられた。(すると家康は)『そのようなものはございません。ただ、われらをこのうえなく大切に思い、火の中、水の中にも飛び入り、命を惜しまぬ士(さむらい)たちを五百騎持っております。この士たち五百騎を召し連れていれば、日本の六十あまりの国に恐れる敵はありませんので、この士たちのことを、このうえない宝物と思い、いつも大切にしております』と答えられたので、秀吉は顔を赤らめ返事はなかった」(『名将言行録巻之四十一』より訳出)
天下一の実力者に向かい、ここまでストレートに部下を自慢できるリーダーは幸せだと、私は思う。
事実、家康は生涯の中で、三方ヶ原(みかたがはら)の戦いに敗れて逃げ帰ったり、信長の死後、少数の手勢を引き連れて堺から伊賀を越え岡崎に帰国するなど、危機を幾度も経験している。そのたびごとに、家康を死地から救ったのは、三河武士を中心とする部下たちの働きであった。
失業中の主君を慕い、支え続けた家臣たち
リーダーと部下たちのあいだに、本当に心の通う関係ができあがったら、どんなことが起こるのか。
自身も弓矢の達人で、「日本無双」の武将と称えられた立花宗茂(たちばな・むねしげ)と、家臣団の心温まるエピソードを最後に紹介したい。
宗茂は19歳の頃、九州の制覇を狙う大友宗麟(おおとも・そうりん)の家臣として、筑前(現在の福岡県北西部)の守りについていた。ところがここに、強豪・島津氏の軍勢が攻め込んでくる。宗茂は、5万騎以上の軍勢を相手に、4千人あまりの手勢で籠城戦(ろうじょうせん)を展開し、豊臣秀吉の軍勢が九州入りするまで持ちこたえ、反撃まで行っている。こうしたさまざまな功績により、宗茂は秀吉から筑後柳川(ちくごやながわ/現・福岡県柳川市)13万2000石を領地として与えられ、大名に取りたてられた。
『名将言行録』も最大級の賞賛をもって、宗茂の人となりを伝えている。
「宗茂は、温厚で偽りがなく寛容、丁重な人柄で、徳があって驕ることなく、手柄を立ててもうぬぼれず、(相手が)自らの意向でそうしているかのようにふるまうほど人使いがうまかった。行いは善から外れることなく、流れるようである。こびへつらう人を遠ざけ、分不相応な贅沢を禁じ、情をもって民をいつくしみ、義をもって士たちを振るい立たせた。だから士たちはみな、喜んで宗茂に仕えた。戦をすれば、奇策と正道の見事なことはまさに天性のもので、攻めれば必ず相手を破り、戦えば必ず勝利を収めた」(『名将言行録巻之二十七』より訳出)
関ヶ原の戦いで、宗茂は東軍(徳川方)につくよう勧められたが、亡き秀吉への忠義を尽くして豊臣方につく。ところが関ヶ原への途半ばで足止めを食らい、直接の参戦はかなわなかった。柳川に戻った宗茂は、待ち構えていた鍋島直茂(なべしま・なおしげ)の軍勢と戦い、黒田官兵衛、加藤清正とも相対峙することとなる。柳川城下を戦火にさらすことを避けるため、宗茂は、加藤清正からの降伏勧告を受け入れて城を明け渡した。
宗茂が城を出ると、庄屋や百姓百四五十人が道をふさぎ、「どんなことがあっても城をお出になることはありません、筑後四郡の百姓どもは一命を差し上げます」と声をそろえて上げた。すると宗茂は馬を下り、「皆がそう申してくれて満足だ。領内にいる皆のために城を出るのだ。何も変わりはないから皆の者、心配するな」といって皆を帰らせた。百姓たちは皆声を上げて泣いた。城を出て清正に謁見した宗茂の、平素と代わらぬ立ち振る舞いをみて、加藤家の重臣たちは深く感じ入ったという(『名将言行録巻之二十七』)。
宗茂の家臣たちは、領地を明け渡し浪人生活に入る宗茂と行動をともにしたいと願ったが、経済的な事情がそれを許さない。
幸いなことに、「不敗の名将」との評判を取る宗茂の家臣たちに対する世間の評価は高かった。他藩から、宗茂の家臣たちに対する仕官の誘いが相次ぎ、宗茂の人柄に惹かれていた加藤清正も、家臣の多くを受け入れた。それでも他の主君に仕えることを断り、浪人生活に入った宗茂と行動をともにした家臣が、19名いたと伝えられている。
宗茂が浪人してまもなく持参金が尽きた。宗茂は実直な武人ではあるが、世間知らずで、働きに出てお金を稼ぐことは下手であった。食事にも事欠くほど困窮した。そんな中でも、宗茂は、ふたたび大名として返り咲くことをあきらめない。
あるとき、食事に出せる料理がなく、仕方なく雑炊を作ったところ、宗茂は「汁掛け飯にして出さなくとも、(汁と飯とを)そのまま出させよ」といったので、彼のそばに仕えていた家臣たちは思わず泣いたという(『名将言行録巻之二十七』)。
宗茂は雑炊を知らなかったのだろう。彼に同行した家臣たちは、竹笊(ざる)や草履を編んだり、竹箸を削ったり、日雇いに出たりしながら収入を得て、失業中の主君を養ったという。
「あるいは、もともと十三万余石の大名の家老・十時摂津(ととき・せっつ)が、深編笠(ふかあみがさ)で面体(めんてい)を隠し、にわか虚無僧(こむそう)となって門(かど)づけ(*)をしていた、との挿話がある。これも時勢、浪々(ろうろう)の主君の生活費を稼ぐため」 であった(加来耕三『立花宗茂 戦国「最強」の武将』〈中公新書ラクレ〉)。
(*)門づけ:芸人などが人家や商店の門口(かどぐち)に立って演奏したり、芸を見せて報酬を得ること
そうまでして宗茂を支えた家臣たちの思いが、通じたのだろう。
宗茂は徳川幕府の第2代将軍・秀忠の話し相手となることを請われ、御噺衆(おはなししゅう)と親衛隊長となる。報酬は5000石だった。
その後、1万石の大名として秀忠に取り立てられ、さらに1万石の報酬が加えられた。宗茂はこの間に、家臣たちを呼び戻し始めている。まだわずかではあったが、給与を出せるようになっていたのだ。
そして元和(げんな)6(1620)年11月、宗茂は20年ぶりに旧領の柳川藩主に返り咲く。
「秀忠は宗茂に旧領の柳川を与え、『先にそなたを遠方の小藩に封じたが、怨まず怒らず、よく大命をはたしたことは、非常に満足である。これにより、柳川の旧領を与えるから、よく武備を整えよ』と話したということだ。宗茂は涙を流し、その恩を承った」(『名将言行録巻之二十七』より訳出)
まことに、リーダーとしての冥利に尽きるというものだろう。
わが身に降りかかる苦難をともに乗り越え、歩んでくれる部下の存在こそ、リーダーにとって最大の宝物だ。
今話題の生成AI「ChatGPT」も、心の通う人間関係まで生成してはくれないだろう。改めて今、人間がやるべきことは何か、人間しかできないことは何かと考えさせられる。
人の心を動かすのはあくまで人だ。あなたのすぐそばにいる部下たちと、心を通わせていただきたい。
【参考文献】
●岡谷繁実『名将言行録』(東京・牧野堂、明治28―29年)
●北小路健・中澤惠子訳『名将言行録 現代語訳版』電子書籍版(講談社学術文庫、2019年
●童門冬二『「情」の管理・「知」の管理――組織を率いる二大原則』電子書籍版(PHP研究所、2015年)
●童門冬二『歴史に学ぶ「人たらし」の極意』(青春出版社、2016年)
●童門冬二『「人望力」の条件』電子書籍版(講談社、2013年)
●童門冬二『戦国武将の宣伝術』(講談社文庫、2005年)
●童門冬二『上司の心得』(PHP研究所、2007年)
●吉川英治『新書太閤記 全9巻合本版』電子版(MUK production、2015年)
●加来耕三『立花宗茂 戦国「最強」の武将』電子書籍版(中公新書ラクレ、2021年)
ジャーナリスト 加賀谷 貢樹
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