第29回
名将に学ぶ「上司学」⑨組織の和と不和を考える
イノベーションズアイ編集局 ジャーナリスト 加賀谷 貢樹
名将・真田幸村が語るリーダーの苦悩と自戒
「和を以て貴しとなす」
聖徳太子が定めたと伝えられる十七条憲法以来、和を重んじることは日本人の美徳として語り継がれてきた。
ところが、企業経営や組織運営の実務として、和を保つことは非常に難しい。前回記事でエピソードを紹介した真田幸村が、あるときこんな話をしたという。
「昨日まで忠義の士(さむらい)だと思っていた者も、主人の好みが変われば、たちまちそれに合わせて機嫌を取り、気に入られようと思うものだ。
中にはまれに真の忠義者がいて、(主人の誤りなどを)たしなめることもある。だが、(そのせいで主人が機嫌を損ねて)辱(はずかし)めに遭い、妻子にまで苦労をかけて家名を汚すということになれば、忠義の者でも、だいたいは後々のことを考え、自分の信念を曲げて調子を合わせてしまう。
また、忠臣であっても、いったん侮辱されれば、主人を怨み怒って、(本心を隠しながら)媚びへつらう者も時折いるものだ。少し忠告をすれば(主人は)機嫌を損ねてしまうし、何事も常に移り変わるものである。だから『とりたてて問題にしても仕方がないことで家名を落とすよりはよい、成り行きに任せよう』と考え、勤めをおろそかにしてしまうのだ」
(岡谷市繁実『名将言行録』〈再生閣、明治28、29年〉巻之四十より訳出)
組織を統(す)べるリーダーの苦悩がうかがえる。戦国時代の武家でも、家臣や家来たちの追従(ついしょう)、保身、サボタージュは日常茶飯事だったのだ。
信用できると思っていた部下が、ある日突然手のひらを返したように保身に走る姿を見るのは、非常に辛いものだろう。リーダーに気に入られるために、あからさまに取り入る態度を見せる人もいれば、リーダーの機嫌を損ねることを恐れ、業務の改革や問題解決に必要な意見具申をすることを避け、当たり障りのない程度に仕事をしてすませる人もいる。組織に波風を立てないという、悪しき同調圧力が働くのだろう。
だからといって、幸村のこの言葉は、家臣や家来に対する不満や批判一辺倒にはなっていない。リーダーというものは、よほど修養を積んでいなければ、部下からの忠告を素直に聞き入れることができないものだということに対する、自戒の念も込められているからだろう。幸村の述懐はさらに続く。
「あるいは、同僚との関係から主人にも恨みを抱き、一計を案じて主人の機嫌に合うようにとりなし、悪事を勧めて主人の評判を落とし、同僚にも恥をかかせる。その一方で、自分には火の粉がふりかからないようにしながら、よい頃合いを見計らって身を引き、主人や同僚たちの災難をあざ笑う者がいる。とにかく頼もしいと思っても、油断することがあってはならない」
(『名将言行録』巻之四十より訳出)
組織内に不和が広がると、リーダーとしての地位さえ脅かされかねないということだ。この言葉は、同僚がリーダーにうまく取り入って自分を出し抜いたとか、同僚に言いくるめられたリーダーから無実の罪を着せられた、というケースなどについて触れているのだろう。
恨みに駆られた部下が面従腹背を続けて機嫌を取り、頃合いを見計らってリーダーを陥れて失敗させ、同僚にも恥をかかせるということさえ起こりうる。自分は火の粉がかからないうちに逃げ出し、恨みを晴らして高みの見物を決め込む。
組織が、こうした私怨(しえん)がぶつかり合う場になってはおしまいだ。苦労人の徳川家康も、側近たちをこう戒めている。
「家の政(まつりごと)に携わる重臣たちは、和を重んじなければならない。なぜならば、低木に火がつくと、そのせいで山火事になるように、重臣たちが政で争えば国が滅びるからだ。お前たちは、常に謙虚さを忘れず人々と親しくしなければならないぞ。もし、好き勝手な政を行えば、それは国の仇(あだ)となる。足利三代の将軍を支え、室町幕府の基礎固めに力を尽くした細川頼之(ほそかわ・よりゆき)を手本とすることだ」
『名将言行録』巻之四十一より訳出
戦国最強の武田家を滅ぼした組織の内紛
実際に、重臣たちのあいだで深刻な対立が起き、それが家の滅亡につながった例がある。
重臣、今の会社でいえば社長の側近にあたる重役、役員たちが仲違いを起こし、一方の勢力が事実をねじ曲げ、トップにおもねる発言をした。それがもとでトップが誤った判断を下し、戦国時代最強といわれた武田家が滅びたのだ。
天正元(1573)年に武田信玄は、織田信長・徳川家康連合軍を絶体絶命の危機に陥れたあと、信長包囲網の中心として兵を進めている最中に病死する。武田家は、信玄の死をひた隠しにしたまま、信玄の四男である武田勝頼(かつより)が家督を継いだ。
信玄は臨終のときに、こう遺言したという。
「自分が死んだあと、みだりに軍を動かしてはならない。ただ国を治め、敵が侵略してきたらそれを防ぎ、敵が去れば国を守れ(中略)私の死後3年間は喪(も)を隠すであろうから、死を知るものはいない。(上杉)謙信もそのうち死ぬだろう。今後3年間は、私の威光で何事も起こらないはずだ。次の3年は和議などで過ぎていくだろう。そのあとは信長が天下を統一するはずだ」
(『名将言行録』巻之七より訳出)
ところが、信玄の遺言は守られなかった。信玄が病死した翌年の天正2(1574)年12月28日に、武田家の老臣・山県昌景(やまがた・まさかげ)や内藤正豊(ないとう・まさとよ)らが、信玄の生前と同様に翌年の軍事戦略について議論していた。今でいえば、会社の次年度の事業戦略について、経営幹部が集まって会議をしていたのである。
そこに、武田家家臣の長坂長閑(ながさか・ちょうかん)、跡部勝資(あとべ・かつすけ)がやってきた。以下、武田信玄を中心とする甲州武士の功績や心構えなどを記した『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』の説にしたがい、経緯をまとめていくことにする。
内藤は、「軍事戦略に関する相談は隠密にするべきだと信玄公はたびたびおっしゃっていた。あなたがたは、これまで軍事戦略の会議に携わったことがない。勝頼様からも、軍事に関する事柄は軽率に扱ってはならない。信玄公の代のまま会議を行うようにという御自筆の書状を受け取っている。あなた方の職務に口出しはしないので、私たちの相談にも口出しはしないでほしい」、と述べた。
にもかかわらず、長坂と跡部は自らの職分を越えて主戦論を唱える。長坂は、「今後1、2年のあいだに美濃(現在の岐阜県中部)や尾張(現在の愛知県西部)、三河(現在の愛知県東部)のどこかで、信長や家康と、家の存亡を賭けた戦いをすることは避けられない、それが勝頼様のご意向だ」と主張した。
内藤はそれを聞き、そなたが若い勝頼様を扇動し、武田家を滅ぼして恨みを晴らそうというのだろうと批判した。長坂の息子の昌由は、かつて謀反に関わったという罪で信玄より罰を受け、刑死している。
そこから激しい口論が始まった。
「それはひどい」と憤る長坂が、脇差しに手をかけるや、内藤も長刀を手に取り、刀を抜こうとする仕草を見せた。まさに、斬り合い寸前である。
その場はいったん収まったが、その日、長坂は勝頼のもとを訪れてこういった。
「老臣の方々はわが身がお大事なようで、年若い殿を見下し、消極論を申しており、(自分が)討ち死にするのではないかと身を案じていらっしゃるように見えます」
「まことに無礼ではございますが、われらは、勝頼様の戦場での勇敢さはあの上杉謙信公のようであると存じております。謙信公は、勝つか負けるか、国を取るか取らないかはさておき、戦わなければならない戦(いくさ)を避けることはありませんでした。そのような武士は、日本国が始まって以来、ほかには勝頼様しかございません」
(佐藤正英 校訂・訳『甲陽軍鑑』〈ちくま学芸文庫〉所収の原文より訳出)
長坂長閑の言葉の通り、武田勝頼は織田信長と雌雄を決するべく、大攻勢に打って出た。その結果、武田軍の騎馬隊を織田軍の鉄砲隊が迎え撃ったことで有名な長篠(ながしの)の戦い(天正3〈1675〉年)で、致命的な大敗北を喫してしまったのだ。
かつて信玄の側近として仕えた高坂弾正(こうさか・だんじょう)は、『甲陽軍鑑』にこう記している。
「内藤と長閑が言い合いとなり、仲違いしたことが武田家の一大事であった」
「去年12月28日(天正2〈1574〉年)に一時的なもめごとがあった。それが勝頼の耳によくない形で入ったのである。勝頼は、家老たちの戒(いまし)めを、少しも聞き入れなかった。そのため今年の長篠の戦いで敗退し、(優れた武将たちは)みな討ち死にをした。(ところが)強硬論を唱えた長坂長閑、跡部勝資は何事もなかったように帰陣しながら、今に至るまで強硬論を唱え続けている。武田家が滅ぶことは間違いないであろう」
(前掲、『甲陽軍鑑』〈ちくま学芸文庫〉所収の原文より訳出)
長篠の戦いで織田信長に大敗し、歴戦の勇士や家臣の大半を失った武田家が滅亡したのは、信玄の死から9年後となる、天正10(1582)年のことだった。
勝頼に対して、研究者のこんな批評がある。
「武田信玄の息子ながら、勝頼は信玄に色濃く表れる『孫子』的思考が希薄である。信玄は、戦闘を極力避けるためにさまざまな工夫を凝らしたが、最後の手段として戦闘を考え、その切り札として軍隊を育成した。そのために、貴重な軍隊の使用については計画的で慎重であったが、勝頼は親の遺産を浪費するかのように、軍隊を多用している」
(海上知明『戦略で読み解く日本合戦史』〈PHP新書〉)
だからこそ、重臣たちは一致して勝頼に諫言しなければならなかった。しかし、実際に行われたのは諫言ではなく讒言(ざんげん)だった。武田家内の急進派は事実を曲げて老臣たちを中傷し、勝頼をそそのかして、信玄が戒めた対外戦争に打って出るよう説き伏せた。組織内の不和、深刻な対立が滅びのきっかけになったのだ。
今回を含めて3回にわたり、組織の和と不和について考えていく。次回は、名将や名君たちは、組織内の不毛な争いをどうやって避け、和をはかろうとしていたのかを掘り下げることにする。
- 第29回 名将に学ぶ「上司学」⑨組織の和と不和を考える
- 第28回 名将に学ぶ「上司学」⑧名将たちは「人の目利き」を通して何を見極めたのか
- 第27回 名将に学ぶ「上司学」⑦「人の目利き力」なきリーダーは組織戦に勝てない
- 第26回 名将に学ぶ「上司学」⑥リーダーは「人の目利き」になれ
- 第25回 名将に学ぶ「上司学」⑤職場に元気を取り戻す「6つの心得」
- 第24回 名将に学ぶ「上司学」④「人がついてくるリーダー」が大切にしていること
- 第23回 名将に学ぶ「上司学」③名将は「部下のモチベーションを高める達人」だ
- 第22回 名将に学ぶ「上司学」②部下の失敗にどう向き合うか
- 第21回 名将に学ぶ「上司学」①名将は怒らず諭し、悟らせる
- 第20回 名将に学ぶ「心を通わす」リーダーの言葉③――名将は「自分の器」をどう広げたか
- 第19回 名将に学ぶ「心を通わす」リーダーの言葉②――名将たちは部下をどう叱ったか
- 第18回 名将に学ぶ「心を通わす」リーダーの言葉①
- 第17回 お客様を信じられなくなったときに何を考えるか
- 第16回 シリーズ「古典に学ぶ、勝つための知恵」①『呉子』
- 第15回 「自由闊達で愉快なる理想の職場」を作るために
- 第14回 挑戦し創造するマインドを取り戻せ――ソニー「大曽根語録」に今学ぶもの
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- 第7回 経営者も上司も親も悩む――「やる気」を高め、「心に火をつける」マネジメントの知恵①
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