明日を生き抜く知恵の言葉

第32回

名将に学ぶ「上司学」⑫部下を感動させた名将・名君の「神対応」①

イノベーションズアイ編集局  ジャーナリスト 加賀谷 貢樹

 

戦国時代や江戸時代の日本には、「人育ての名人」と呼ばれる名将・名君たちがいた。

本連載で主に紹介してきた『名将言行録』には、今から4、500年前に生きた名将・名君の人の育て方や、彼らと家来たちとのやり取りも数多く記されている。

戦国時代や江戸時代といえば、絶対主義的、封建主義的なイメージが強く、家来たちは有無をいわさず主君への服従を強いられる、窮屈な時代だったと思う人が多いかもしれない。

現実にはそういう一面もあっただろう。だが『名将言行録』に記されているエピソードには、文字通りの真剣勝負を生き抜くための厳しさもある一方、上司の部下に対する温かい思いやりや細やかな心遣いを、今に伝えるものが少なくないのだ。

たとえば、本連載第21回記事にも記したように、上司が部下を叱るとき、湧き上がる怒りをおさえ、「自分の正しさ」を押しつけず、諭(さと)して気づかせ、本人が納得して行動を改めるような指導をしている。

部下を1人の士(さむらい)、あるいは人間として尊重する姿勢はもちろん、組織内での合意形成もある意味、現代の組織より民主的ではないかとさえ思えるエピソードがあるほどだ。

今に伝わる名将・名君たちの、心が洗われるような「人育て」や人使いのエピソードをみていこう。

先祖伝来の弓を折った部下を褒める

江戸時代前期、下野国(しもつけのくに/現在の栃木県)烏山(からすやま)藩(現在の那須烏山市)に板倉重矩(いたくら・しげのり)という藩主がいた。

重矩は、先祖伝来の弓を居間に立てかけていた。重矩が不在のとき、側(そば)に召し抱えていた若者が、弓を素引(すび)きしてみようと思い、引っ張りすぎて弓を折ってしまった。

その若者は困って家老にいきさつを話したが、家老までがため息をつき、「それは大変だ、その弓は先祖代々伝わる御家宝の1つで、重矩様がどれほどご機嫌を損ねられるかわからない」といった。家老はその若者にまず自宅謹慎を申し付け、重矩が戻ってきてから頃合いを見計らい、事の次第を申し上げた。

すると重矩は「その者をここに呼ぶように」といったので、その若者は「自分はきっと手討ちにされるに違いない」と覚悟を決めて重矩のもとに赴いた。すると重矩は、彼に向かってこういった。

「『私が居間に立てかけておいた弓を折ってしまったそうだが、お前は常日頃から誠心誠意奉公に努めてくれている。それゆえ、思いもよらぬ忠義を尽くしてくれたことを(私は)喜んでいるぞ』」(『名将言行録』巻之六十七より訳出)

重矩の意外な言葉に、誰もが驚いた。

先祖伝来の大切な名弓を、若い部下が不注意で折ってしまったのに、怒られるどころかお褒めの言葉をいただいたからだ。重矩はその理由をこう話す。

「なぜなら、あの弓は、わが身が窮地に陥ったときに用立てようと思い、立てかけておいたものだからだ。お前が素引きをして折れる弓であるとなれば、われらが引いても折れるに決まっている。ところが、危急(ききゅう)のときに(弓が)折れるとなれば、われわれは不覚を取るに違いない。平時に弓が折れたのは、私にとってはめでたいことだから、(お前は)けっして気を落としてはならぬぞ」(『名将言行録』巻之六十七より訳出)

重矩の言葉に、その若者はいうに及ばず、側に仕える者からよその者までが涙を流し、「この方のためなら死んでも命は惜しくない」と思わぬ者はなかったという。

部下の失敗を、なぜ重矩は叱るどころか、褒めたのか。

重矩本人の優しさや思いやり、親心もあっただろう。だが、より重要なのはリーダーの普段の心がけだと私は思う。常日頃から危機に備える心構えがあったから、より高い判断基準をもって部下の失敗に対応することができたのだ。

リーダーが「日々、平穏無事に乗り切れればそれでよし」という程度の意識しか持っていなかったら、部下は厳しく叱られていたはずだ。

だが、重矩の心がけは違っていた。常日頃から危機を意識して藩の経営をしていたから、部下の思わぬ失敗によって、先祖伝来の弓が、じつは危機のときには役立たぬものであったことに気づけたことを、本当に感謝したのだろう。だから、前代未聞の大失敗をした若い部下を褒め、気を落とすなといって励ましたのだ。

部下が仕事で失敗したとき、リーダーであるあなたは、どんな言葉をかけるだろうか。

「私が事情を話してやるから、主人にありのままを話せ」

本連載の第30回記事で、徳川第3代将軍の家光と第4代将軍・家綱に仕え、知恵者として評判が高かった松平信綱(まつだいら・のぶつな)のエピソードを紹介した。

信綱の官職名は「伊豆守(いずのかみ)」で、松平伊豆守信綱(まつだいら・いずのかみ・のぶつな)の呼称で知られていた。本エピソードはこの官職名がポイントになる。

ある日、寺社奉行(じしゃぶぎょう)の安藤重長(あんどう・しげなが)が、小姓(こしょう)に書状を持たせて、同職の松平出雲守勝隆(まつだいら・いずものかみ・かつたか)のもとに使いを出した。書状には「お目にかかって相談したいことがあるので、(江戸)城を退出されたあと当家にお越しください」と記してあった。

ところが使者が帰宅しても返事がない。

まもなく、伊豆守(いずのかみ)の信綱が安藤宅にやってきて、「(重長殿は)ご在宅か」といって客間に入ってきた。信綱は「今日は登城の刻限(こくげん)が少し早いので、ここで(登城の時刻を)待たせてもらおう」といって挨拶し、安藤家の小姓を呼んだ。家老に会いたいとのことだったので、加茂下外記(かもした・げき)が出てくると、信綱は「私がここに来たのは、そなたに頼みがあるからだ」と話した。

信綱が、重長にではなく安藤家の家老に用事があるというのは、どういうことなのか。信綱はこういった。

「今朝(私のところに、そなたの)ご主人から届いた書状は、宛名に『伊豆守』とあったが、じつは『出雲守』の書き誤りだと思われる。ご主人が登城されて出雲守殿に会い、書状のことを告げれば(書状が届いていなかったことがわかり)、使者や(宛名を間違って記して)手紙を書いた者がお叱りに遭うだろう」(名将言行録巻之六十四より訳出)

当時は、大名が自分で手紙や書状を書くことはほとんどなく、右筆(ゆうひつ)と呼ばれる代筆役が代わって書いていた。だから、手紙の宛名を書き間違えた右筆が叱られることになる。信綱は続けて、こう話した。

「『いずも』と『いず』はたった一字の違いで、そのような間違いや書き違いは、多忙のときには多々あるものだ。私は、ただこれを知らせるために自らここに来たのであるから、手紙を書いた者をお叱りなきよう、主人に詫(わ)びよ。もしお叱りがあったら、私が事情を説明してやろう」(名将言行録巻之六十四より訳出)

「出雲守」宛ての手紙が間違って、「伊豆守」である信綱の元に届いたのだ。このままでは、重長に代わって手紙を書いた右筆はもちろん、それとは知らず「伊豆守」宅に手紙を届けた小姓も叱られるかもしれない。

他家の家来のことではあるが、よくある誤りで主人から叱られるのは忍びない。自分が自ら安藤家に出向き、右筆や使者が叱られないように根回しをしておいてやろうと、信綱は考えたのだった。

安藤家の家老の外記(げき)はその情け深さに感じ入り、事のいきさつを知った重長も、信綱に深く感謝を述べ、一緒に江戸城に登城したということだ。

――次回に続く――

 

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