第63回
「年収の壁」から「労働時間」の壁へ移行する社会保険適用の新時代(その1)
一般社団法人パーソナル雇用普及協会 萩原 京二
はじめに
日本では長らく「年収の壁」が、働き手と企業にとって労働環境を形作る一つの指標として存在してきました。この「壁」は、年収が一定額を超えた場合に税金や社会保険料の負担が急増する仕組みから生じています。その中でも特に「106万円の壁」は、多くの短時間労働者にとって現実的な課題となっていました。
しかし、近年の最低賃金の引き上げにより、年収基準が事実上形骸化しつつあります。さらに、政府は社会保険の適用基準を「年収」から「労働時間」に切り替える動きを加速させています。この動きは、「106万円の壁」の撤廃や従業員規模要件の廃止といった具体的な制度改正として現れ、今後の労働環境に大きな影響を与えるでしょう。
本コラムでは、こうした変化がもたらす新たな課題と可能性について考察します。特に、「労働時間の壁」が新たな基準としてどのように労働環境や経営戦略に影響するのかを掘り下げ、企業がこの新しい時代をどのように乗り越えるべきかについて提言を行います。
1. 年収の壁の終焉とその意義
(1) 年収基準が抱える課題
日本の労働環境における「年収の壁」は、長年にわたり労働者の働き方を制限する要因として存在してきました。特に「106万円の壁」は、パートタイム労働者やアルバイトの働き手にとって大きなハードルとなり、次のような問題を引き起こしてきました。
・働きたい意欲の阻害
年収が106万円を超えた場合、社会保険料の負担が増え、手取り収入が減少する逆進性の問題が生じます。このため、多くの労働者が労働時間を制限する行動に出ざるを得ない状況となっていました。
・家計収入の最適化の阻害
家庭全体の収入を増やすことを目的とした労働時間調整が、壁の存在によって困難になるケースが多発しています。結果として、労働者個人や家庭における経済的な可能性が抑制されていました。
・最低賃金引き上げとの矛盾
最低賃金が引き上げられる中で、週20時間程度の労働でも106万円を超えるケースが増えています。このため、現行の年収基準は現実的ではないと指摘されてきました。
(2) 年収基準の撤廃がもたらす意義
こうした問題を解消するため、政府は「年収基準」を撤廃し、「労働時間基準」へと移行する方針を打ち出しています。この変化は、以下のようなメリットをもたらすと考えられます。
・働き方の柔軟性の向上
年収制限がなくなることで、労働者は自らの生活スタイルや経済状況に合わせて働き方を選びやすくなります。これは特に、短時間労働者にとって大きなメリットです。
・公平な制度への進化
労働時間を基準とすることで、年収や家庭状況にかかわらず、労働者が平等に社会保険の適用を受けられる仕組みが実現します。
・将来の年金受給額の増加
社会保険の適用対象が拡大することで、厚生年金に加入する労働者が増加し、結果として将来受け取る年金額の増加が期待されます。
(3) 年収基準撤廃の課題
一方で、以下の課題も無視できません。
・企業側の負担増加
短時間労働者の社会保険料を企業が負担する割合が増加するため、中小企業を中心に経営への影響が懸念されています。
・労働者の手取り減少の懸念
社会保険料の負担により、一部の労働者は短期的には手取り収入の減少を感じるかもしれません。
年収基準の撤廃は、短期的な負担を伴うものの、長期的には働きやすい環境を整え、社会全体の労働力を最大限に活用するための重要な改革です。この流れの中で、企業は新しい基準に適応するための準備を進める必要があります。
2. 「労働時間の壁」が新たな基準に
(1) 労働時間基準の概要
年収の壁が撤廃される中で、社会保険適用の新しい判断基準として注目されているのが「労働時間の壁」です。この基準では、労働者の週当たりの労働時間が適用要件の中心となります。
<現行制度の労働時間基準>
・従業員数51人以上の企業: 週20時間以上の労働で社会保険適用。
・従業員数50人以下の企業: 週30時間以上(4分の3要件)で社会保険適用。
<2027年10月以降の予定>
・企業規模要件が撤廃され、従業員数に関係なく、週20時間以上働く労働者が社会保険適用対象となります。
・短時間労働者でも広く適用されることで、公平な社会保険加入が実現します。
(2) 労働時間基準と労働契約管理の重要性
社会保険の適用があるか否かの判断は、入社時に締結される労働契約の内容に基づいて行われます。特に、以下のポイントが重要です。
・所定労働時間の確認
労働契約書に明記される所定労働時間が、週20時間以上かどうかが判断基準となります。このため、入社時の労働契約の正確な作成と管理が不可欠です。
・労働契約と実際の労働時間の整合性
契約上の所定労働時間と実際の労働時間が一致しない場合、適用範囲の誤解やトラブルの原因となる可能性があります。そのため、契約と実態を定期的に見直すことが求められます。
・勤怠管理システムの導入
契約上の所定労働時間を適切に記録・管理するために、勤怠管理システムやツールの活用が有効です。
これらを徹底することで、社会保険適用に関する労使トラブルを防ぎ、適切な労働環境を維持することができます。
(3) 労働時間基準のメリット
労働時間基準が導入されることは、以下のようなメリットをもたらします。
・公平性の向上
年収に左右されず、労働時間というシンプルで測定可能な基準で判断されるため、労働者間の公平性が確保されます。
・働き方の柔軟性の拡大
労働時間基準に統一されることで、週20時間以上の労働者が社会保険の適用を受けやすくなり、短時間勤務や複数の仕事を掛け持ちする働き方が選びやすくなります。
・将来への安心感の提供
社会保険加入者が増えることで、厚生年金の受給額が増加する見込みがあり、老後の生活基盤が強化されます。
(4) 労働時間基準がもたらす課題
一方で、新基準には次のような課題も予想されます。
・企業の負担増
短時間労働者が社会保険に加入することで、企業の保険料負担が増加します。特に中小企業にとっては、経営コストが上昇する要因となる可能性があります。
・労働時間管理の重要性
労働時間が社会保険適用の基準となるため、企業には正確な勤怠管理が求められます。不適切な管理は労使トラブルを引き起こすリスクがあります。
・労働者の意識変革
一部の労働者は、短期的に手取り収入が減少すると感じる可能性があり、制度変更への適応が求められます。
労働時間基準への移行は、労働者にとっては柔軟で公平な制度を提供する一方で、企業にとっては負担や運用の課題を生むことになります。しかし、入社時の労働契約内容を適切に管理することで、これらの課題に対処し、より良い労働環境を実現できるでしょう。
(次号につづく)
プロフィール
一般社団法人パーソナル雇用普及協会
代表理事 萩原 京二
1963年、東京生まれ。早稲田大学法学部卒。株式会社東芝(1986年4月~1995年9月)、ソニー生命保険株式会社(1995年10月~1999年5月)への勤務を経て、1998年社労士として開業。顧問先を1件も持たず、職員を雇わずに、たった1人で年商1億円を稼ぐカリスマ社労士になる。そのノウハウを体系化して「社労士事務所の経営コンサルタント」へと転身。現在では、200事務所を擁する会員制度(コミュニティー)を運営し、会員事務所を介して約4000社の中小企業の経営支援を行っている。2023年7月、一般社団法人パーソナル雇用普及協会を設立し、代表理事に就任。「ニッポンの働き方を変える」を合言葉に、個人のライフスタイルに合わせて自由な働き方ができる「パーソナル雇用制度」の普及活動に取り組んでいる。
Webサイト:一般社団法人パーソナル雇用普及協会
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